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ホタルを探しに 3

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    第三話

     

     寺西浩二はさっきからずっと仕事をサボッてネットサーフィンを続けている。そして時折となりのデスクにいる太陽に意味もなく話しかけてくる。


     太陽は段々イライラしてくる。こっちは納期が迫っている図面が思うように進んでいなくて焦っているのだ。そんなくだらないことでいちいち話しかけてくるなと太陽は心のなかで思う。しかし、そんなことはとても口に出しては言えない。かりにも寺西浩二は先輩にあたる人間だ。寺西の話しにそうですねと適当に頷いて愛想を振りまくしかない。

     しかし、それにしても、と、太陽は思う。このひとはいつ見てもちゃんと仕事をしているときがないな、と。いい加減にしか仕事をしないイメージがある。そして何かにつけて自分の仕事を太陽に押し付けてくる。悪いけど、ちょっとこれやっておいてくれよ、と。

     今の図面が思うように進んでいないのも、もとはといえば寺西のミスが原因なのだ、と、太陽は腹が立つ。

     だいたい寺西は太陽よりも五つ年上で妻と子供がいる。そんなことでいいのか、と、太陽は寺西に説教したくなる。もっと下の人間の見本となるような行動を取らなければいけないんじゃないのか。

     だけど、こんなふうに寺西のことを不愉快に感じてしまうのは、何も寺西のせいばかりではないな、と、太陽は一方でわかっていた。

     寺西が仕事をしないのはいつものことだし、それに太陽はべつに寺西のことが嫌いというわけではない。勤務態度はあまり褒められたものではないけれど、ひととしてはいいひとだ。親しみが持てると思う。

     たぶん、こんなふうに感情が泡だってしまうのは、昨日の由梨のせいだ、と、太陽は思った。昨日あれから太陽は結局由梨とは何も口をきかないまま朝を迎えてしまった。その後味の悪さというか、釈然としかない気持ちが太陽は今もずっと続いていた。

     太陽はパソコンに向かって仕事を続けながら、次第に思うように仕事に集中することができなくなってきた。太陽はとなりでアダルトサイトを見ている寺西にちょっと一服してきますと声をかけると、座っていた椅子から立ち上がって、屋上に向かった。


     太陽は屋上に出ると、洋服の胸ボケットからタバコの箱を取り出した。そしてそこからタバコを一本取り出して口にくわえると、ライターで火を点けて一口吸った。 

     一応事務所内は禁煙になっているので、タバコを吸うときはこうして屋上にでなければならない。

     屋上からは大阪の街のはずれの景色を望むことができる。それほど背の高くない、どちらかといえば地味でくすんだ色をした建物が思い思いの場所に散らばって立っている。

     天気はよく晴れていて、薄く、優しい水色をした空に、小さな雲がぽつんとぽつんと間隔をあけて浮かんでいた。

     思えば、こうしてゆっくりと空を眺めてみたのは久しぶりのことだった。空気を吸い込むと、微かに甘いような匂いがする。夏の匂いだ、と、太陽は思った。

     太陽は少し、大学生だった頃のことを思い出した。

     あの頃は楽しいことがたくさんあった。はじめて誰のことを真剣に好きになったのも大学生のときだった。結局、その恋は実らず、片思いのままに終わってしまったのだけれど。

     そういえば自分がタバコを吸い始めたのは、その失恋が原因だった、と、太陽はほろ苦い気持ちで思い出した。どんなに太陽が相手のことを思ってもその気持ちは届かず、太陽が落ち込んでいると、友達がタバコを進めてくれたのだ。ちょっとは気持ちが楽になるよ、と。

     それまで太陽はタバコを吸いたいと思ったことなんて一度もなかったのだが、そのときからやめることができなくなってしまった。

     と、太陽がそんなふうに思い出に浸っていると、背後にある屋上のドアが開いて誰かが歩いてきた。振り向いた太陽は一瞬ドキリとした。そこに一瞬、昔自分が片思いしていたひとが立っているような気がしたからだ。

     でも、それはもちろん錯覚で、そこに立っていたのは吉川美穂だった。

    「泉谷さんもここだったんですか」
     と、吉川は太陽の顔を見ると、笑顔で言った。
     太陽は咄嗟に上手いリアクショクが取れずに曖昧な返事を返した。

     吉川は太陽のとなりまで歩いてくると、洋服のポケットからタバコの箱を取りしだした。
    「吉川さんもタバコ吸うんや」
     と、太陽が意外に思って呟くように言うと、吉川は苦笑するように小さく笑って、
    「最近、ムシャクシャすることが多くて」
     と、言い訳するように答えた。

     吉川はタバコの箱からタバコを一本取り出すと、口にくわえてライターで火をつけた。そしてそれから美味しそうに軽く目を細めて一口吸った。

    「ムシャクシャするってやっぱり彼氏のことが原因なん?」
     と、太陽は自分もタバコを口元に運びながらなんとなく尋ねてみた。すると、吉川は横目で太陽の顔を見て、
    「そうですね」
     と、苦笑するように笑って頷いた。
    「・・・あとそれ以外にも色々」
     と、吉川はタバコを吸いながら付け加えて言った。

    「色々って?」
     と、太陽が気になって尋ねてみると、
    「うーん」
     と、吉川はどう答えたらいいのか迷うにように唸った。そしてそれから少しのあいだ考えるように黙っていたけれど、
    「たとえばこのままでいいのかなって」
     と、口を開いて言った。そう言った彼女の声はどことなく寂しそうにも響いた。

    「わたしいま派遣社員だけど、でも、ずっと派遣社員を続けていくつもりはなくて・・・ほんとうはもっと大きな建築事務所で働くのが夢なんですよね」
     と、吉川はそう言うと、自分の言葉を冗談に紛らわすように微かに笑った。

    「彼氏が大阪の会社に就職したから、わたしもなんとなく大阪の会社に就職したんですけど、でも、わたし東京にある大きな会社で働いてみたいんですよね。東京の方が色々チャンスもありそうな気がするし・・それにもともとわたし関東圏の出身だし」

    「そうなんや」
     と、太陽は吉川の話に相槌を打ちながら、いつだったか彼女が自分は茨城県出身だと話していたことを思い出した。大阪には大学進学で出てきたと彼女は話していた。

    「でも、そう言われると、俺もこままでいいのかなって思ってしまうな」
     と、太陽は吉川の科白に共感するでもなく微笑して言った。
    「結構今の仕事って楽やし、それなりの給料もらえるから、ついそれに甘えてしまってる自分がいる気がするな」
     と、太陽は苦笑して言った。
    「ほんとうは今頃有名な建築家になってる予定やってんけどな」
     と、太陽は冗談めかして言うと少し笑った。

     その太陽の笑い声に誘われるようにして吉川も少し笑うと、
    「でも、今からでも遅くないんじゃないですか?」
     と、明るい表情で太陽の顔を見て言った。
    「今からでも頑張ったら有名な建築家になれるかもしれませんよ」

    「そうやなぁ」
     と、太陽は曖昧に頷いてタバコを吸った。
    「でも、最近はほんまに何も勉強してへんからなぁ」
     太陽は自嘲気味な笑みを浮かべて言った。

     いつの間にそうなってしまったのか、かつて大学生くらいの頃まであった夢や理想を追う気持ちが、今ではほとんど消えかかってしまっていることに、太陽は自分で気がつかないわけにはいかなかった。

     ただ日々の、目の前のことをこなすことだけで精一杯で、いつの間にか建築家になりたいという夢がどうでもよくなってきている。太陽の本来の予定であれば、今頃は一級建築士の資格を取っているはずだった。それが現実は一級建築士の資格を取るどころか、その勉強さえしていない。太陽は何か後ろめたい気持ちになるのと同時に、焦りを覚えた。

    「・・・俺も吉川さんを見習わんとあかんな」
     と、太陽は少しの沈黙のあとで微笑して呟くように言った。
     吉川はそう言った太陽の顔を振り向くと、
    「って、わたしもまだ何もしてないですけどね」
     と、言ってから可笑しそう軽く笑った。

     それから吉川はふいに表情を消して正面に向き直ると、
    「・・・今度の日曜日、彼氏に会うことにしました」
     と、吉川はいくらか唐突に宣言した。

     太陽が何の話だろうと思って吉川の言葉の続きを待っていると、
    「昨日、泉谷さんに相談したとき、泉谷さん、彼氏にちゃんと言った方がいいって言ったじゃないですか?だから、今度会ったとき言ってみるつもりなんです。わたしのことどう思ってるか・・・」
     吉川はそこまで言葉を続けると、太陽の方を振り向いて、
    「・・・でも、たぶん、答えははじめからわかってるんですけどね」
     吉川は続けて言って、いくらか寂しそうに小さく笑った。

    「彼氏に会うのは一ヶ月半ぶりくらいだし、最近はあんまり連絡とかも取ってないし・・・だから、はじめから答えはわかってるようなものなんですけど・・・でも、その方が自分としても気持ちがすっきりしていいかなって思って」
     吉川はそう言ってから、口元でいくらかぎこちなく微笑んだ。

     太陽はどう言うべきかわからなかったので黙っていた。

    「・・・それで自分の気持ちに区切りをつけることができたら」
    と、太陽が黙っていると、吉川は言葉を続けた。
    「わたし、東京に行こうと思ってるんです。今の会社辞めて、最初から頑張ってみようかなって」
    「そっか」
     と、太陽は頷いた。

     弱い風が吹きすぎていった。

     それは顔を俯けた吉川の髪の毛をそっと靡かせていった。

    「でも、まだわからへんやん」
     と、太陽は少し経ってからからかうように言った。
    「彼氏と別れることになるかどうか」
     太陽がそう言うと、吉川は俯けていた顔をあげて、いくらか怪訝そうに太陽の顔を見つめた。
    「東京に行くのを決めるのは、今度彼氏と話をしてからでもいいんちゃう?」
     と、太陽は吉川の顔を見てできるだけ優しい口調で言った。

     すると、吉川は、
    「そうですね」
     と、少し寂しそうな、でも、いくからは救われたような小さな笑みを浮かべて静かに頷いた。
    「いずれにしても、吉川さんにとっていい結果がでるように祈ってるわ」
     と、太陽は微笑みかけて言った。

     

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    ホタルを探しに 2

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                         二話



       




       吉川と別れて太陽がアパートに帰りついたのは、夜の十二時過ぎだった。



       



       白石由梨はソファーに座って、テレビで深夜のバラエティ番組を見ていた。白石由梨とは一年程前から同棲している。



       



       由梨は太陽が帰ってきたことに気がつくと、太陽の方を振り向いて、



      「おかえり」



       と、声をかけた。



      「うん」



       と、太陽は曖昧に頷いた。べつにやましいことなんて何もないのに、変にそわそわとして落ち着かない気持ちになる。



       



       そんな緊張が伝わったのか、伝わらないのか、由梨は、



      「今日は遅かったね」



       と、続けて言った。



      「今日は残業やってん」



       と、太陽は答えた。そう答えた自分の声が少し不自然に響くのを太陽は感じた。



       



       太陽は由梨が腰を下ろしているソファーのとなりに少し間隔をあけて腰を下ろすと、



      「今日は起きてていいの?」



       と、由梨の機嫌を伺うようにそれとなく訊ねてみた。由梨の会社は朝が早いのでいつもこのくらいの時間帯には寝ているはずなのだ。



       



       太陽の問いに、由梨はテレビ画面に視線を向けたまま、うん、と、短く頷いた。



      「ここのところ徹夜とか休日出勤が多かったから、急遽、所長が明日休みにしてくれたんだよね」



       由梨はそう答えると、テレビで何か面白いことがあったらしく、大きく口を開けて笑った。



      「そうなんや」



       と、太陽はただ頷いた。



       



       それから、太陽がなんとなく彼女のとなりで黙ってテレビを観ていると、



      「明日、太陽は仕事でしょ?」



       と、ふいに由梨が口を開いて言った。



      「そうやで」



       と、太陽は頷いた。



       明日は平日なので仕事がある。



       



      「じゃあ、明日は家で寝てようかな」



       と、由梨はつまらなさそうに言った。



      「最近仕事が忙しくてゆっくり眠むれてないし」



       由梨は大学を卒業したあと、太陽とはまたべつの建築事務所で働いている。彼女が勤めている事務所は忙しいらしく、あまり満足に休みがもらえていないようだった。



       



      「うん、そうした方がいいんちゃう?」



       と、太陽は彼女のことを気遣って言った。すると、由梨は唐突に、



      「ねえ、なんか最近太陽冷たくない?」



       と、テレビ画面に向けていた視線を太陽の顔に向けて、不満そうに言った。



      「えっ、なんでなん?」



       太陽は意味がわからなくて訊き返した。 



       



      「だって、明日、せっかく休みだって言ってるんだよ?」



       由梨は更に責めるような口調で言った。



      「最近どこにも行ってないし・・・せっかく休みなんだから、たまには仕事が終わったあとにご飯とか誘ってくれてもよくない?」



       



       太陽はその由梨の科白を聞いてバカらしいと思った。食事に誘って欲しいのであれば最初からそう言えばいいじゃないかと思った。



      「わかった。じゃあ、明日、仕事終わったあとで良かったらどこか行こか?」



       太陽は不愉快な気持ちになったけれど我慢して言った。



       



       しかし、由梨はそんな太陽の気遣いをまるで無視して、



      「そんなふうにしぶしぶ誘ってもらってもうれしくない」



       と、口を尖らせて拗ねたように言った。



      「じゃあ、どうしたいねん」



       と、太陽はちょっと苛立って言った。



       



       そう言った太陽の言葉に由梨は何も答えなかった。怒ったよう表情を浮かべて黙ってテレビを観ている。だから、明日どうするんだと太陽がもう一度同じ質問を繰り返しても、やはり由梨はテレビ画面に視線を向けたまま何も答えなかった。



       



       だんだん面倒くさくなってきた太陽は「好きにしたらええやん」と、投げやりに言って、風呂場に行くために座っていたソファーから立ち上がった。



       



       



       



       太陽は浴室で頭からシャワー浴びながら由梨のことを考えていた。由梨に対するわだかまりがおさまらなかった。せっかく自分が譲歩してやったというのにあの由梨の態度はなんなんだ、と、太陽は納得できなかった。



       



       そもそも自分は果たしてほんとうに由梨のことが好きなんだろうか、と、太陽は考えた。



       



       正直に言って、ルックス的な部分では、由梨はあまり太陽の好みのタイプではなかった。太陽はどちらかという細身の女性が好きだ。しかし、由梨はふっくらとした体型をしている。顔立ちだって決して整っている方ではないだろうと思う。



       



       じゃあ、自分はどうなんだと言われればひとのことが言えた立場ではないと思うが、しかし、理想と現実はべつである。自分があまり美男子ではないからといって、相手の女性があまり好みのタイプではなくても仕方がないと思えものでもない。



       



       太陽が由梨と知り合ったのは二度目の大学四年のときだった。



       



       太陽は大学四年のときに一度留年していて、二度四年生をしているのだが、その二度目の四年生のときに、太陽は由梨と同じゼミのクラスになったのだ。



       



       はじめ、太陽が由梨のことを女性として意識することはなかった。



       



       しかし、由梨の方が積極的にアプローチしてきくれた。他のゼミの子は太陽が一つ年上であることに遠慮してどこかよそよそしいところがあったのに対して、由梨は全くそういうことがなかった。まるで同い年の友達のように親しげに話しかけてくれた。



       



       それが太陽にとっては新鮮だったし、ありがたかった。そのうちに太陽は由梨に対して少しずつ親しみを覚えるようになっていった。



       



       太陽が由梨に告白されたのはその年の夏だった。



       



       太陽が大学の授業を終えて一緒に由梨と帰っていると、その帰り道の途中で、由梨はもし良かったら自分と付き合ってくれないか、と、言った。



       



       太陽はそのとき実を言うと自分の気持ちがよくわらかなかった。友達としては由梨のことが好きだと思ったが、異性として由梨のことを好きだと思っているかどうか、太陽はあまり自信が持てなかった。だから太陽は迷った。



       



       でも、結局由梨と付き合うことにした。今はまだ彼女のことを女性としてみることができなくても、そのうちに彼女のことを好きになることができるんじゃないか、と、太陽は思ったのだ。



       



       それから四年の歳月が流れた。



       



       果たして自分は由梨のことを本当の意味で好きになることができたのかどうか、太陽はいまひとつ確信が持てない。特に別れる理由がないから惰性で付き合っている気が、どうしてもする。昔片思いしていたときに感じたような心の昂揚がない。べつに由梨のことが嫌いなわけではないと思うが、嫌いでないことと、好きというのは違い気がする。



       



       太陽は昔好きだったひとの顔を思い浮かべた。それからそのイメージはすぐに吉川美穂の顔に変化した。



       



       もしかすると、自分は由梨と別れた方がいいのかもしれないな、と太陽は思った。



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      ホタルを探しに。

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         第一話


        「このあとってちょっと時間あります?」

         そう遠慮がちに声をかけられたのは、仕事を終えてふたりで事務所を出たときだった。

         泉谷太陽はちょっとドキリとして、となりに居る吉川美穂の顔を見つめた。

         吉川美穂は三ヶ月程前から太陽の勤めている建築事務所で働いてくれている。彼女は大手派遣会社の社員で、べつに同僚というわけではない。確か歳は太陽よりも三つ下で、二十四歳だったはすだ。

        「べつに大丈夫やけど、でも、なんで?」
         と、太陽は平静を装って彼女の言葉に答えた。

         吉川美穂は、太陽の好みのタイプだった。その色が白くて、華奢な身体つきや、円らで優しそうな瞳は、太陽が大学生のときに片思いをしていたひとを彷彿とさせる。だから、太陽はどうしても彼女と接していると、まるで昔好きだったひとと一緒に居るようで落ち着かない気持ちになってしまう。こんな女の子とつき合えたらいいのにな、と、思ってしまわずにはいられない。

         自分には付き合ってから四年目になる恋人がいるというのに、こんなことを思ってしまうなんて間違っているな、とは思うのだが、しかし、太陽はそんな自分の気持ちをどうすることもできなかった。

        「ちょっと泉谷さんに相談したいことがあって。・・・だから、もし良かったらこのあとご飯でもどうですか?この前ボーナス入ったし、相談に乗ってくれたら、わたしおごりますよ」
         と、彼女は小さく笑って言った。

        「マジで!?」
         と、太陽は大袈裟にリアクションを取ると、
        「じゃあ、何奢ってもらおうかな」
         と、冗談めかしていいながら、彼女の誘いに応じることにした。

         少し、今つき合っている恋人に対して後ろめたい気持ちにならないわけではなかったが、しかし、これくらいのことは許容範囲の内だろうと判断した。それに、吉川美穂が相談したいことがあると言っているのに、それを断ってしまうなんて冷たいじゃないか、と太陽は自分の気持ちにいいわけした。べつに疚しいことをするわけじゃないのだから、と。




         太陽が勤めている建築事務所は、ケータイ販売店店舗の図面を書くことを主に手がけている。太陽はまだこの会社に入って三年目だ。以前は大学の先輩に紹介されて入った小さな建築事務所で働いていた。が、太陽が働きはじめて一年あまりでその事務所は倒産してしまい、その後、太陽は半年あまり無職の状態を経て今の会社に再就職した。

         今の会社の仕事は、以前勤めていた会社の仕事に比べるとはっきり言って楽だ。営業が取ってくる店舗の図面をただこなすだけでいいので、納期さえ守っていればかなり余裕を持って仕事をすることができる。しかも、店舗の図面というのはおおよそのパターンが決まっているので、あれこれ頭を悩ませる必要がない。

         以前勤めていた事務所は小さいがらも個人の家を扱っていたので、色々と難しい部分が多かったし、少人数で仕事をするのでどうしても徹夜の作業になることが多かった。しかし、今の会社では全くそういうことがない。

         むしろ、真面目に仕事をするとすぐに仕事が終わってしまうので、経営側に暇だと思われないために、わざと仕事をのろのろとやったりするくらいだ。

         ただ、時期によっては、今の吉川美穂のように、派遣会社からひとを借りてきて手伝ってもらわないと業務をこなせない場合もある。

         今日は来週までに仕上げなければならない図面が思うように進んでいなくて残業になってしまった。ふと太陽が気がついたときには他の同僚はみんなさきに帰っていなくなってしまっていた。吉川美穂だけがひとり残って仕事をしていた。

         吉川さんも残業?と太陽が不思議に思って声をかけてみると、彼女は、ほんとうはもっと早く帰れるはずだったのだが、途中で自分のミスに気がついて、仕事をいちからやり直さなければならなかったのだ、と、苦笑まじりに説明した。

         太陽は彼女の科白に頷くと、自分はもう帰るけどどうするかと訊いた。すると、彼女は、自分も今日はもう切がいいところまで終わったので帰ることにすると言った。

         そういう経緯でふたりは今日一緒に事務所を出ることになったのだが、その帰り際に、太陽はまさか吉川に相談をもちかけられるとは思ってもみなかった。


         ふたりは事務所を出ると、少し歩いて深夜まで営業しているカフェに入った。

         太陽は注文を取りにきた店員にハンバーグのセットを注文し、吉川は軽く悩んでからドライカレーのセットを注文した。

         ふたりは程なくして運ばれてきた料理を口にしながらなんでもない世間話のようなことを話した。最近急に暖かくなってきてもうすぐ夏だねといった話や、この前見たDVDの感想。

         考えてみると、太陽が吉川とこんなにたくさん話したのははじめてのことだった。会社の飲み会や仕事中に何度か言葉を交わしたことはあったものの、今のようにゆっくり話しをたことはなかった。

        「それで、俺に相談したいことってなんなん?」
         太陽は料理を食べ終わり、食後のコーヒーが運ばれてくると、頃合を見計らって冗談めかして言った。いつまで待っても吉川が相談ごとを口にする様子がないので、自分の方から話しを振った方が吉川としても切り出しやすいのかなと太陽は思ったのだ。

        「仕事のこと?」
         と、太陽が訊くと、吉川は軽く首を振った。そしてちょっと躊躇ってから、
        「実は恋愛のことでちょっと相談したいことがあって・・・」
         と、いくらか話しづらそうに言った。

        「仕事のことじゃないんや」
         と、太陽が意外に思って呟くように言うと、
        「あの、こういうのって迷惑ですか?」
         と、吉川は不安そうに太陽の顔を見つめて言った。
         太陽は軽く笑うと、俺でよかったらいくらでも相談に乗るで、と、おどけた口調で言った。

         すると、吉川は少し安心したように微笑して頷いて、
        「わたし、昔、泉谷さんに彼氏居るって話したことありましたよね?」
         と、言った。
         
         太陽は彼女の言葉に頷いた。いつだったかそんな話をしたことがあった。会社の休憩時間中に世間話をしていると、同僚の一人がみんなは恋人はいるの?と突然言い出して、お互い恋人がいる、いない、といった話をしことがあった。

         そのとき、自分には大学のときから長く付き合っている恋人がいると吉川が話していたことを太陽は覚えていた。

        「もしかして彼氏と上手くいってへんの?」
         と、太陽は吉川の顔に視線を向けると、からかうように言った。
         すると、吉川は苦笑するように小さく口元を綻ばせて、
        「実はそうなんですよね」
         と、いくらか寂しそうな声で太陽の問を肯定した。

        「そうなんや」
         と、太陽は相槌を打つと、洋服の胸ポケットからくしゃくしゃになったタバコの箱を取り出して、そこから一本タバコを取り出して口にくわえた。
        「なんでなん?」
         と、太陽は尋ねてみた。
        「もしかして喧嘩とか?」
         喧嘩なら太陽もしょっちゅうしている。

         すると、吉川は軽く首を振って答えた。
        「べつにそういうわけじゃないんです。・・・ただ、なんとなく、最近彼氏が冷たいような気がして」
         吉川は伏し目がちに眼差しを落として言った。

         太陽はどう答えたらいいのかわからなくて曖昧に相槌を打った。

        「もしかしたらただの気のせいかもしれないんですけど、でも、なんか不安なんですよね」
         と、吉川は太陽が黙っていると続けて言った。
        「・・・このまま彼氏との距離が開いていって、それで終わっちゃうのかなって思うと」
        「そうなんや」
         と、太陽は頷いた。沈んでいる吉川の顔を見ていると、太陽は彼女のことがかわいそうになってきた。
        「でも、ただの気のせいやと思うけどな」
         と、太陽はなんとか吉川を元気づけてあげたくて言った。

        「吉川さんって今の彼氏と付き合いはじめてから何年目やったけ?」
         太陽は少し間隔をおいてから訊ねてみた。すると、吉川は、
        「もう、四年目ですね」
         と、短く答えた。
        「それやったら倦怠期なんかもな」
         と、太陽は言った。
         すると、吉川は表情を曇らせて、
        「でもなんか、そういう感じとも違う気がするんですよね」
         と、心細そうな声で言った。

        「彼氏とはもう付き合ってから長いから何回も倦怠期みたいなのはあったけど、でも、今回はそういう雰囲気とは違う気がして」

        「そっか」
         太陽は頷くと、口にくわえていたタバコにライターで火を点けて吸った。吐き出した煙は何かを探し求めるようにゆっくりと店内に広がっていく。太陽はなんとなく自分の吐き出した煙の行方を目で追った。

        「でも、そんなに悩んでるんやったら、思い切って彼氏に言ってみたら?」
         太陽はしばらくしてから言った。
        「最近、なんか冷たくないって?そしたら原因がはっきりしてすっきりするんちゃう?」
        「・・・そうなんですけどね」
         と、彼女は太陽の意見に少し顔を俯けて頷いた。そして五秒間ほど黙っていてから、
        「でも、なんかい怖いんですよね」
         と、ポツリと言った。

        「・・・わたし、彼氏のことが結構本気で好きだから、もしそうやって言って、別れが確定的なものになっちゃったらって思うと。だから、怖くて言えないんですよね」

        「なるほどなぁ」
         と、太陽は頷いた。どう返事をしたらいいのかよくわからなかった。太陽は自分が手にしているタバコから立ち上っていく煙の行くへをぼんやりと見つめていた。

        「・・・だけど、なんかおかしなものですよね」
         太陽が黙ってアドバイトを考えていると、吉川は自嘲気味な笑みを浮かべて言った。太陽は自分の手元に落としていた視線を吉川の顔に戻した。

        「わたし、最初、今の彼氏のことそんなに好きじゃなかったんです。だから、最初に彼氏に告白されたときとか全然付き合う気とかなくて・・・でも、彼、わたしが振っても、何回もわたしに告白してきてくれて・・・それでそのうち段々なんか彼のことがかわいそうになってきちゃって」

        「それで付き合うことにしたんや?」
         と、太陽が微笑して尋ねると、吉川は苦笑するように笑って頷いた。
        「でも、いつ間にか立場が逆になっちゃってるんですよね」
         と、吉川は付け加えて言うと寂しそうに少し笑った。

         店の自動のドアが開いて、新しく客が入ってくるのが見えた。社会人風の男女のカップルだった。

         太陽はタバコをもう一口だけ吸うと、その手にしていたタバコの火を灰皿で押しつぶす
        ようにして消した。そしてもう残り僅かになっていたコーヒーの残りを飲み干してしまうと、
        「でも、やっぱり彼氏に確認してみた方がいいと思けどな」
         と、太陽はできるだけ優しい口調でさっきと同じことを繰り返して言った。

        「吉川さんが怖いと思う気持ちはわかるけど、でも、今みたいに中途半端な状態でだらだら続くのも辛いと思うし、もしかしたら単純に吉川さんの勘違いかもしれへんし。いずれにしても訊いてみないことにはなにもはじまらへんと思うで」
         と、太陽は率直な意見を述べた。

         すると、吉川は、
        「・・・やっぱりそうですね」
         と、何かを諦めるように微笑して頷いた。それから彼女は顔を俯けると自分の想いをまとめるように黙っていたけれど、やがて顔をあげると、
        「なんか今日はありがとうございました」
         と、いくらか改まった口調で言った。そう言った彼女の顔には何か決意にも似たさわやかな表情が浮かんでいるように太陽には感じられた。
        「泉谷さんに話してちょっとすっきりした気がする」
         と、吉川は微笑んで言った。
        「泉谷さんってなんか話しやすいですよね」
         と、吉川は親しみのこもった微笑を口元に広げて続けて言った。

        「いや、べつにそんなこともないけどな」
         と、太陽はちょっと照れ臭くなって曖昧に笑って答えた。
        「とりあえず、わたし、今度思い切って彼氏に訊いてみることにします」
         吉川は迷いのなくなった明るい表情でそう宣言した。

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        曇り空の向こう 15

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            少し歩き疲れたので、池田は駅前のベンチで休憩することにした。まだ面接までは十分に時間がある。

           池田の目の前をたくさんのひとたちが忙しそうに足早に通り過ぎていく。

           ふと空を見上げると、そこには冬特有のどんよりとした冷たい灰色の空が見えた。

           もう、中島たちが東京に行ってから約二ヶ月が経過した。

           この前池田は久しぶりに中島にメールを送ってみたのだが、中島は東京で元気にやっているらしかった。なんでも今は雑貨屋さんでアルバイトをしているらしい。まだ標準語に馴染めなくてときどき大阪がすごく恋しくなると彼女はメールで書いていたが、彼女は東京での新しい生活をそれなりに楽しんでいるようだった。中島の彼氏も東京で順調に音楽活動をはじめていているようで、この前いつくのかレコード会社にデモテープを送ったところらしい。


           池田は会社を辞めてから結構たくさんの数の会社の採用試験を受けた。そのうちのいくつからの会社からは比較的良い返事がもらえていて、今日これから面接に行く会社は、一応社長との最終面接ということになっている。無事内定をもらうことができるかどうか池田はいまひとつ自信がなかったが、とりあえず今は自分なりにベストを尽くそうと思っていた。駄目だったら、またそのとき考えればいい。


           池田は空をゆっくりと流れていく冷たい灰色の雲を見つめながら、ここ半年ばかりの歳月を振り返ってみた。考えみると、この短い期間のあいだにずいぶん色んなことがあったような気がした。恋人を失い、会社を辞めた。どちらも全然大したことではないかもしれないが、しかし、そのことを思い出すと、池田はふと哀しいような気持ちにもなった。自分がこれまで信じてきたことは全て無駄だったのかな、と、池田は心から何かが失われていくように感じた。


           空に向けていた視線を足元に落とすと、そこには名前の知らない小さな草の花が咲いていた。歩道の敷石の隙間から雑草が生えていて、その雑草が小さな花を咲かせているのだ。淡い青色の小さな花だった。こんな寒い季節に花を咲かせる草があるんだな、と、池田は思った。それから、池田はふとこの前友人が自分に送ってくれた小説のことを思い出した。


           武田洋介から年賀状代わりの手紙が届いたのは、一月のはじめのことだった。その手紙のなかで武田は自分の近況を伝えてきていた。今自分は実家に戻って家業を手伝っていること。慣れないことが多くて大変だが、でも、それなりに充実した毎日を送っていること。

           そして、武田は手紙の最後にこう記していた。実は自分は実家に戻ってから再び小説を書くようになったのだ、と。最後に大阪で池田に会ったあの日、自分はもう小説は書かないと宣言したものの、やはりどうしても小説に対する未練の気持ちが捨てきれなくて、性懲りもなくまた書き始めてしまったのだ、と、武田は手紙のなかで弁解していた。



           その手紙には最近彼が書いたという短い小説も同封されていた。池田は早速その同封されていた小説を読んでみたのだが、その『冬の花』というタイトルの小説は、小説として優れているかどうかはわからないものの、池田の好きなタイプの小説だった。読み終わったあと、静かで、優しい気持ちになることができる。


           物語の主人公は三十代前半の女の人で、彼女は離婚していて、ひとりの幼い娘がいる。東京に住んでいる彼女は過去の色んなことを忘れたくて、地方の海辺の小さな町に引越すことにする。その小さな町には大学時代の古い友達が住んでいて、その友達がこっちに来ないかと彼女のことを誘ってくれたのだ。

           やがて海辺の町に引越した彼女は、娘を通して、その土地で様々なひとたちと出会い、成長していく。そして過去を乗り越えて、前向きに生きようという気持ちに少しずつなっていく。

           物語の最後で、冬にしか咲かない花の種を娘と一緒に植える場面があるのだが、池田は足元に咲いている名前の知らない花を見つめているうちに、武田の書いたその小説のことをふと思い出した。


           池田は俯けていた顔を上げて、もう一度空を仰いでみた。いま見上げた空には分厚い雲がかかっているが、でも、この雲を抜けた向こう側にはきれいな青空が広がっているはずだ、と池田は思った。そう。雲のない、明るい世界がそこには広がっているはずなんだ、と、池田は思った。


           今日はこのあと久しぶりに泉谷と会う予定になっている。池田が今日会社の最終面接があると伝えたら、泉谷が内定決定の前祝で急に奢ってやると言い出したのだ。今日は奢ってやると言ったことを後悔させてやるくらい、たくさん飲み食いしてやろうと池田は思った。池田があまりにもたくさん飲み食いするので、慌てる泉谷の顔が今から目に浮かぶようで池田は可笑しかった。


           腕時計で時刻を確かめると、もうそろそろ面接の時間だった。池田はそれまで座っていたベンチから立ち上がると、ゆっくりと歩き出した。前に向かって。

           
           吹きつけてくる風は冷たかったが、不思議とそれはむしろ心地よく感じられた。


                     曇り空の向こう・完

           
           
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          曇り空の向こう 14

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                       28


             中島とその彼氏を見送りに行く日、空は晴れ渡った。

             

             空にはまるで冬の冷たさを取り込んだような透き通ったきれいな青空が見えた。空には小さな雲がぽつんぽつんとどこかのんびりとした表情で浮かんでいる。

             池田は約束通り中島たちふたりの見送りに行くことした。見送りには泉谷も一緒についてきた。

             駅に見送りにきているのは池田たちだけではないようで、中島とその彼氏の知り合いらしいひとたちの姿も幾人か見受けられた。

            「池田さんたちほんとにきてくれたんですね」
             と、中島は池田の顔を見ると、にっこりと微笑んで言った。

            「今日はたまたま暇やったしな」
             池田は微笑して答えた。池田は中島には会社を辞めたことは伏せておくことにした。もし池田が会社を辞めてしまったことを知ったら、彼女はきっと自分のせいだと責任を感じるだろうと思ったからだ。池田は彼女に余計な心配をかけたくなかった。

             あの日、主任を殴った日の翌日、池田は部長に呼び出された。池田はその日会社を辞めるつもりで辞表を持っていっていたのだが、それよりもさきに解雇されることになるのか、と、池田は自嘲気味に思った。でも、まあいいか、と、池田は思い直した。そのぶん手間が省けて良いかもしれない。

             池田が部長の部屋のドアを軽くノックすると、ドアの向こう側から返事があって、入室を促された。

             部屋に入ると、池田は部長が口を開く前に、黙って、辞表を書いた紙を差し出した。部長はそれを受け取ると、中身を確かめて、それをテーブルの上に戻した。

            「きみは会社を辞めるつもりなのか」
             と、部長は池田の顔を見ると言った。
             池田は、はい、と、頷いた。

            「話は聞いているよ」
             と、部長はしばらく間をおいてから言った。
            「すまみせん」
             と、池田は頭を下げた。やはり主任は昨日のことをもう既に話していたのか、と、池田は半ば呆れながら思った。
            「あのときは頭に血が上ってしまっていて・・・でも」

             部長は片手をあげて池田の言葉を遮った。
            「弁解はしてなくてもいいよ。暴力を振るうのは良くないことだが、でも、どうせあいつがきっとまたろくでもないことを口にしたんだろう」

             部長はそこで言葉を区切ると、何かを考えるように眼差しをテーブルの上に落とした。
            「いや、あいつには俺たちもちょっと困ってるんだよ」
             と、しばらくしてから部長は顔をあげると言った。

            「あいつは俺たち兄弟のなかでも一番年下だから、どうも甘やかされて育ったところであるみたいでね・・・その、なんというか、すごく子供ぽっいところがあるんだ。気に入らない人間がいるとすぐに辛く当ったりしてね・・・再三注意はしているんだが、なかなか効果がなくてね」

             池田は部長の言葉に何と言えばいいのかわからなかったので黙っていた。池田は部長からまさかこんな言葉がでるとは考えてもみなかった。

            「どうだろう」
             と、部長は池田が黙っていると言葉を続けた。
            「会社を辞めるのは考えなおしてもらえないだろうか?きみの仕事ぶりはなかなか熱心なところがあるし、僕としてはできればきみに会社に残ってもらいたいと考えているんだ

            ・・・もちろん、きみもあいつと一緒じゃ働き辛いだろうから、ちゃんとそれも考えているよ。あいつには来月から九州に行ってもらうつもりだ。今度九州に進出する計画があってね、あいつにはそっちのプロジェクトに入ってもらうつもりだ」

             池田は部長の言葉に頭を振った。部長の申し出はありがたがったが、しかし、もう既に池田の決意は固まっていて、今更会社に残るつもりはなかった。新しい場所で最初からやり直してみたいという気持ちの方が強かった。

             池田がそのことを部長に伝えると、部長はいくらか残念そうな表情はしたものの、最終的には池田の気持ちを尊重して、会社を辞めることを認めてくれた。


            「また機会があったら東京にも遊びにきてくださいよ」
             と、中島のとなりに立っている寺岡が微笑んで言った。
             池田は寺岡の言葉に曖昧に微笑して頷いた。

            「そっちもたまには大阪に遊びにきてや」
             と、池田のとなりで泉谷が明るい声で言った。
            「ほんまやで」
             池田も泉谷の科白に賛同して言った。
            「もちろん」
             池田と泉谷ふたりの言葉に中島は小さく笑って答えた。
            「わたし、大阪のこと愛してますから」


             そのうちに、中島たちふりたが乗る予定の新幹線がホームに入ってきた。
            「じゃあ、東京でも頑張ってな」
             と、池田はふたりが乗降口から新幹線に乗り込むと、そう声をかけた。
            「何か色々ありがとうございました」
             と、中島は乗降口に立ったまま、今にも泣き出しそうな表情で言った。


            「池田さんたちに出会えて色々楽しかったです」
            「俺も、池田さんたちと出会えて良かったです」
             中島のとなりで寺岡が笑顔で言った。
            「いつになるかわからないけど、絶対結果だすつもりなんで、みといてください」
            「楽しみにしてるわ」
             と、池田は微笑して言った。
             
             やがて、新幹線の発車するアラームがなって、ドアがゆっくりと閉まった。
             
             中島は乗降口に立ったまま、池田たちふたりに向かって手を振った。池田は軽く手をあけで中島に応えた。


             動き出した新幹線はすぐに遠くに見えなくなった。池田はあげていた手をゆっくりともとに戻した。

            「行ってしまったな」
             と、車両の姿が見えなくなってしまうと、池田のとなりで泉谷が名残惜しそうに言った。
             池田は泉谷の言葉に黙って頷いた。

             それから、池田は中島たちふたりの姿を辿るように、新幹線が去っていったあたりの空間を黙って見つめた。空から舞い降りてくる微かに黄金色の色素を含んだ暖かな日差しが、その空間を穏やかに輝かせていた。池田はそんな眩しい世界を見つめながら、中島たちの未来を思った。池田は純粋に彼らが東京で成功できるといいなと思った。そして自分も頑張ろうと思った。少しずつでも、前に向かって進んでいけるように。


             思い出したように少し冷たい風が吹き抜けいき、それはどうしてか誰かの哀しい歌声のようにも聞こえた。

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            曇り空の向こう 13

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                               26



                十一月の半ばから後半にかけてばたばたと色々なことが起こった。


               まず池田は三ヶ月ぶりくらいに優貴と再会した。それから、池田はそれまで勤めていた会社を辞めることにした。

               池田が優貴の姿を偶然見かけたのは、外回りの営業を終えて、会社に向かって帰っている途中だった。

               会社に向かって歩いていると、池田は反対側の通りに見覚えのある女の顔を見かけた。それは優貴だった。一瞬、見間違いかなもしれないと思ったのだが、しかし、それは間違いなく優貴だった。通りを挟んだ向かい側にはカフェがあって、彼女はいまそのカフェに入ろうとしているところだった。


               咄嗟に、池田は「優貴!」と彼女の名前を叫びそうになった。もしかしたらこれまで彼女が連絡をくれなかったのは何らかの事情があったのかもしれない、と、池田は思った。考えてみれば自分ももう長いあいだ彼女に連絡をしていなし、彼女の方でも自分が連絡してきてくれるのを待っていたのかもしれない、と、ふとそんな考えが浮かんだ。


               話してみれば、意外と彼女はいまでも自分のことを好きでいてくれるんじゃないか。自分のことを必要としてくれているんじゃないか。池田のなかで突発的に彼女に対する未練の気持ちが強まって、つい池田はそんなふうに自分にとって都合の良いように解釈してしまった。すがるようにそんなことを思ってしまった。


               だから、池田は「優貴!」と、彼女の名前を叫びかけた。でも、池田が彼女の名前を呼びかけたまさにその瞬間に、彼女はにっこりと微笑んで、後ろを振り返った。すると、そこには池田の知らない若い男がいた。まるで安っぽいドラマのワンシーンみたいに。ほんとにこんな偶然が起こることがあるんだ、と、池田は唖然とした気持ちになった。


               池田は開きかけていた口を閉じ、優貴とその自分の知らない男がカフェに入っていくのを黙って見送った。優貴は全く池田の存在には気がつかなかった様子だった。


               やがて、ふたりの姿が完全にカフェのなかに消えてしまうと、池田は再びゆっくりと歩き出した。歩きながら、池田は思った。この前泉谷が話していたことはやっぱりほんとうだったんだな、と。自分は知らないうちに彼女に裏切られていたのだ。

               
               でも、不思議と腹は立たなかった。自分だってもし状況が違えば彼女と同じようなことをしていたのかもしれないと思った。彼女のことを責める気持ちは起きなかった。

               ただ、池田は少し悲しいだけだった。誰も自分のことを愛してくれるひとはいないんだな、と、思うと、心から温度が消えていくように孤独な気持ちになった。


               吹き付ける風がやけに冷たく感じられた。




                            27

               気がついたときには池田は主任を殴り飛ばしてしまっていた。殴られた就任は派手な音をたてて座っていた椅子ごと後ろに転倒した。

               やがて立ち上がった主任は殴られた口元を手でかばいながら池田のことを口汚く罵った。こんなことをしてどうなるかわかっているんだろうな、と、声高に主任は叫んだ。

               池田は小さな声でわかっています、と、答えた。もうあんたの顔なんて二度と見たくないんだ、と、池田は言った。


               その日、池田と主任はたまたまオフィスにふたりにきりになった。池田が自分の机で残業をしていると、どこかに出かけていたらしい主任が、池田ひとりしかないオフィスに戻ってきたのだ。

               早く帰ればいいものを、その日主任はなかなか帰ろうとはしなかった。珍しく残業でもしているのか、自分の机で何か作業をしていた。そして案の定、しばらくすると、主任は池田に声をかけてきた。

               またはじまったか、と、池田はうんざりした気持ちで思った。このひとは一日一回は自分に対して何か嫌味を言わなければ気がすまないのだろうか、と、池田は心のなかでため息をついた。

               話があるからこっちにこいよ、と、主任は言った。それで池田はそれまで座っていた椅子から立ち上がると、主任のデスクの前まで歩いていった。

               池田が歩いていくと、主任は俯けていた顔をあけで池田の顔を見た。そして自分の机の上を指し示して、
              「これ、何かわかる?」
               と、訊いてきた。
               見てみると、主任の机のうえには何かの資料のようなものが置かれている。

              「なんですか?」
               と、池田が逆に尋ねてみると、主任はどこか池田のことをバカにしたような小さな笑みを浮かべて、
              「今年の売り上げを書いた紙だよ」
               と、告げた。
               池田がどう言ったらいいのかわからずに黙っていると、
              「今年は売り上げが下がってんだよ」
               と、主任は言葉を続けた。
              「さっきも部長に呼ばれてそのことで叱られてたんだよ。一体どうなってるんだってさ」

               池田は答えようがなかったので何も言わなかった。

              「なんでだと思う?」
               と、主任はわずかに間をおいてから尋ねてきた。
              「なんで売り上げが下がったと思う?」
               池田はわからなかったので、わからない、と、答えた。池田は言われた仕事をこなしているだけなので、経営のことまではわからなかった。

              「お前のせいだよ」
               と、しばらく間をおいてから主任は言った。
              「お前がトロトロ仕事してんのが悪りぃんだよ」
               と、主任は決めてつけて言った。
              「だいたいいつもなんでお前だけこんな遅くまで仕事してんの?他のみんなは帰ってんのにさ」
               それはお前が色んな仕事を俺に押し付けてくるせいだろうが、と、池田は憤りを感じたが、しかし、我慢して何も言わなかった。すみません、と、ただ謝った。

              「すみませんじゃねぇよ!」
               と、主任はいくらか激昂して言った。そして持っていたボールペンを池田の顔に向かって投げつた。
              「なんで俺が部長に怒られなきゃいけねぇんだよ」
               主任は顔を赤くしてそう怒鳴った。
              「だいたいお前の顔を見てると、イライラしてくるんだよ。仕事できねぇし。使えなねぇし。愛想悪いしさ。・・・ほんと、この前、中島さんじゃなくて、お前が辞めりゃあ良かったんだよ」

               無茶苦茶な言われようだったが、池田は主任の言っていることにいちいち腹を立ててもしょうがないと思った。好きなように言えばいいと思った。

              「お前さ、今度辞表出して、代わりに中島さん連れ戻してきてよ。お前中島さんと仲いいんだろ?」
               主任は冗談のつもりなのか口元に笑みを浮かべて言った。
               
               池田はどう言えばいいのかわからなかったので黙っていた。

               しばらくの沈黙があった。

              「中島さん、今度東京に行くらしいじゃん?」
               いくらかの沈黙のあとで、主任はどこからそんな情報仕入れてきたのか口を開くと言った。

               池田が否定も肯定もせずにいると、
              「なんでも付き合ってる彼氏と一緒にいくらしいじゃん。中島さんの彼氏、バンドやってるんだって?」
               と、どこかバカにしたような笑みを浮かべて主任は続けた。

              「中島さんはもうちょっと頭のいい子だと思ったんだけどなぁ」
               主任は薄ら笑い浮かべて楽しそうな口調で言った。
              「なんでそんなヤツと付き合ってんだろ。東京でバンドなんかやったって結果は目に見えてんのに。プロになんてなれるわけねぇじゃん。青春ごっこもいい加減にしろよな。身の程をわきまえろっつうの。何がバンドだよ。バカじゃねぇの」


               主任のその科白を聞いた瞬間、池田のなかでそれまで堪えていた何かが弾け飛んだ。池田は許せなかった。友人をバカにされたことが。友人がそれまで目指してきたものを、大切にしてきたものを、頭ごなしに否定されたことが。お前に一体何がわかるというのだと池田は思った。

               友人たちだって何も考えていないわけじゃないのだ。なかなか思い通りにいかない現実のなかで彼らなりに必死に前に進もうとしているのだ。していたのだ。お前に何がわかるっていうんだ!

               気がついたとき、池田は主任の顔を思いっきり殴り飛ばしていた。殴られた主任は座っていた椅子ごと派手に転んだ。

               やがて身体を起こした主任はまさか殴られるとは思っていなかったのか、その顔に一瞬怯えたような表情を浮かべたが、すぐに口汚く池田のことを罵り始めた。俺にこんなことをしてただですむと思ってるのか、と、主任は怒鳴った。社長に頼んで、お前なんか首にしてやるからな、と、主任は脅した。


               首か、と、池田は顔を赤くしてわめきたてる主任の顔を見ながら妙に冷静な気持ちで思った。首で結構だと池田は思った。もう、あんたの顔なんて二度とみたくないんだ、と、池田は心のなかで吐き捨てるように思った。

               そして、まだ何かを叫び続けている主任に池田は背を向けると、自分の荷物をまとめて、そのままオフィスをあとにした。まだやりかけの仕事が残っていたが、そんなことは知ったことか、と、開き直った。主任が残って続きをやればいいのだ。

               オフィスを去ろうとしている池田の背後で、主任はまだ何かを叫び続けていたが、しかし、池田は構わずに歩き続けた。




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              曇り空の向こう 12

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                               24



                  泉谷も交えて中島と食事に行く日は、十一月最初の土曜日に決まった。池田がそのくらいであれば時間を作ることができそうだと中島にメールを送ると、じゃあその日にしましょうと中島から承諾の返事が帰ってきたのだ。


                 池田は泉谷とは家が近所なので一緒に電車に乗って出かけ、待ち合わせ場所の梅田駅で、中島とその彼氏と合流した。

                 中島の彼氏と顔を合わせるのははじめてなので、池田も泉谷も少し緊張しながらお互いに自己紹介を交わした。中島の彼氏の名前は、寺岡琢磨といい、その一見怖そうな外見とは対照的に話しやすく明るい雰囲気で、すぐに打ち解けた仲になった。

                 どこに食べに行こうかと四人は梅田駅周辺を転々としたあげく、最終的に食べ放題の焼肉屋を見つけて、そこに入ることにした。

                 さすがに休日の夜ということもあって店は混雑していたが、それほど待たされることもなく、四人は席に通された。

                 席につくと、程なくして注文を取りに来た店員に、四人は焼肉の食べ放題のコースを注文し、それから各々好きな酒を頼んだ。

                 オーダした酒はすぐに運ばれてきて、四人は乾杯してからお互いの近況を報告し合った。
                 聞いたところでは、中島たちふたりはもう既に東京に住むところを決めてきたという話だった。

                「いつ間に決めてきたん?」
                 と、池田がいささか驚いて尋ねると、中島は小さく笑って、
                「会社辞めたあとすぐですね」
                 と、答えた。
                「こういうのは早く行動した方がいいだろうと思って」

                「でも、新しく何かをはじめるのっていいよな」
                 と、泉谷はまるで自分が新しい生活をはじめるかのようなうきうきとした口調で言った。

                「そうですね」
                 と、中島は泉谷の科白に微笑して相槌を打った。
                「色々不安なこともあるけど、でも、いまは楽しみなことの方が多いかな」

                「東京に行こうって言い出したのは俺の方なのに、なんかコイツの方が妙に張り切っちゃってるんスよね」
                 と、中島の隣に腰を下ろしている寺岡が苦笑するように笑って言った。

                「新しい仕事さきとかは決まってんの?」
                 と、池田がふと気になって尋ねてみると、中島は頭を振った。
                「まだ何も。でも、最初はバイトでいいかなって。この前決めてきたアパートも家賃五万円くらいでそんなに高くないし、彼氏もバイトするって言ってるし、家賃も折半すれば半額になるし。だからなんとかなりそうかなって。貯金もちょっとだったらあるし」

                「そっか。ちゃんと色々考えてるんやな」
                「一応は」
                 中島は池田の科白に小さく笑って頷いた。

                「まあ、ほんまは養ってほしいんスけどね」
                 と、寺岡が冗談めかして言うと、
                「はぁ?何言ってるのよ。あんた」
                 中島に一蹴された。
                 そんなふたりのやりとりに誘われるようにして池田も泉谷も少し笑った。

                 と、ちょうどそのころに、四人が注文した焼肉用の肉がテーブルのうえに運ばれてきた。それからしばらくはみんな焼肉を食べるのに夢中になって口数も少なくなった。

                 ある程度腹が膨れたところで、
                「でも、ほんまにこの前のライブ、すごい良かったですよ」
                 と、池田は自分の向かいの席に座っている寺岡に向かって感想を述べた。
                「あれやったらほんまにプロになれそうかも」
                 池田の科白に、寺岡は照れ臭そうに笑った。
                「そんなふうに言ってくれるなんて、池田さんいいひとですね」
                「いや、お世辞とかじゃなくて、ほんまに」

                「東京にはバンドのメンバーみんなでいくんですか?」
                 と、それまで黙っていた泉谷が途中で口を挟んだ。

                 その泉谷の問いに、寺岡は若干表情を曇らせて首を振った。
                「いや、東京に行くのは自分だけですね」
                 と、寺岡は目線を落として、残り僅かになったビールを口元に運びながら答えた。

                「実はバンド解散しちゃったんですよ」
                 と、寺岡は苦笑して言葉を続けた。

                「この前まで組んでたバンドのメンバーってみんな同い年くらいなんスけど、みんな二十六とか、八とかそれくらいで・・・それでみんななかなか結果出せないから、そろそろいい年だし、バンド辞めようっていう話なってて。

                 でも、まだ俺はまだ諦めたくなくて・・っていうか、未練があって、だから、そういうのもあって、今回東京に行くことにしたんスけどね。最後に、もう一回だけあがいてみようかなって。無駄かもしれませんけど」

                 寺岡はそこまで話すと、それまで俯けていた顔をあげて泉谷の顔を見ると、困ったように曖昧に少し笑った。

                「そっか。でも、確かに色々悩みますよね」
                 と、泉谷は寺岡の言葉が予想外だったようで、いくらか気遣わしげな表情で言った。
                「・・・なんでなんスかね。寺岡さんたちのバンドやったら、普通にプロとしても通用しそうな気がするんですけどね」

                 寺岡は泉谷の発言に口元で力なく笑った。
                「そう言ってもらえてすごく嬉しいです・・・俺も、自分の演奏とか曲にはある程度自信あるつもりなんスけどね・・・でも、まあ、どうしようもないですからね。こういうのって巡り合わせだから・・・それに、こんなこと思ってるやつらなんて一杯いるんだろうし」

                 寺岡はそこで言葉を区切ると、
                「でも、とりあえず、東京でやれるところまでやってみます。俺、いま二十七だから、三十歳くらいまでは。それでもしだめだったら、また考えます」
                 寺岡はそう言って笑顔を浮かべた。

                 つられるようにして池田は微笑むと、
                「東京行ったら、意外とすぐ結果だせるかもしれませんよ。今のうちにサインもらっとこうかな」
                 と、冗談めかして言った。
                「あ、俺もお願いします」
                 と、池田の言葉に、泉谷も続いた。
                「ふたりとも気が早いすぎです」
                 と、寺岡はそう言って可笑しそうに笑うと、顔の前で手を振った。

                 それから、しばらくのあいだは音楽談義になった。高校のときにどんな音楽を聞いていたかとか、好きな曲について。

                 一通り音楽に関する話題がつきたところで、
                「東京にはいつぐらいに発つつもりなん?」
                 と、池田は一枚だけ余っていた肉を皿のうえに運びながら中島に尋ねてみた。すると、中島は、
                「一応、十二月の頭を予定してます」
                 と、短く答えた。
                「一応、日曜日なんで、もし暇だったら、見送りきてくださいよ。寂しいんで」
                 と、中島はいたずらっぽく笑って言った。

                「自分で言うなって」
                 と、中島のとなりで寺岡が笑って突っ込みを入れた。
                 つられるようにして池田は軽く笑うと、
                「でも、ほんまに時間あったらいくわ」
                 と、池田は微笑して言った。
                「中島さんたちには頑張ってもらいたいしいな」
                「ほんとですか!?」
                 中島は池田の発言にほんとうに嬉しそうな笑顔で言った。

                「ほんじゃ、俺も行こうかな」
                 と、泉谷が池田のあとから遠慮がちな声で言った。
                「なんか賑やかな出発になりそうですね」
                 と、寺岡は微笑んで言った。



                             25

                 中島たちと別れたあと、池田はまた泉谷と一緒に電車に乗って帰った。

                 途中まで方向は同じなので、池田はアパートまでの帰り道を泉谷と一緒に並んで歩いた。もう午前零時近くになった街に人影は少なかった。肌寒いせいか、街を彩っている街灯の光は妙に暖かく、しんみりとして感じられる。

                「でも、ふたりにはほんとに頑張ってもらいたいよな」
                 と、池田は歩きながら、今日中島たちと交わした会話をふと思い出して泉谷に話しかけた。
                「そうやなあ」
                 と、泉谷は池田の科白に曖昧な笑みを浮かべて静かに頷いた。

                 思い出したように少し強い風が吹きぬけていった。十一月に入っていよいよ風も本格的に冷たくなってきた。どこか近くの空き地で鳴いているらしい虫の鳴き声が、風がふきすぎていったあとに静けさを引きたてるように聞こえた。

                「でも、あれやな」
                と、少しの沈黙のあとで、泉谷は池田の方を振り向くと言った。
                「今日、中島さんの彼氏も言っとったけど、やっぱ、俺らくらいの年齢になると、それまで目指してたものとかみんな諦めていってしまうよなぁ」

                 そう言った泉谷の口元に浮かんでいる微笑は、どこか寂しそうにも映った。
                「まあ、年齢的なこととか色々あるし、ある程度仕方のないことなんやろうけどな」
                 泉谷は池田が黙っていると、自分に言い聞かせるようにそう続けた。

                 池田は泉谷の科白に耳を傾けながら、つい最近故郷に帰っていった友人のことを少し、考えた。彼は今頃どうしているのだろうと池田は思った。

                「でも、なんか嫌やな」
                 泉谷は話し続けた。
                「いつも間にか現実なんてこんなものやって諦めるのが当たり前みたいになってるみたいで」
                 太陽は微笑して言った。
                「これからさきの未来にいいことなんて何もないような気がしてしまうやん」

                「確かにな」
                 池田は曖昧に微笑して頷いた。確かに泉谷の言うとおり、いつの間にか気がつかないうちに、何かを諦めることが、上手くいかない現実を受け入れることが、当たり前のことになってしまっているような気がした。どうすれば傷つかずにすむか、失敗せずにいられるか、そんなことばかり考えている自分がいるようで池田は嫌になった。

                「でも、だから余計に」
                 と、泉谷は少し感覚をあけてから微笑んで言葉を続けた。
                「中島さんたちには頑張って欲しいよな。俺らとは違って、前に向かって進んでいって欲しいと思うよな」
                 そう言った泉谷の声は、どこか願うようにも響いた。

                 ふと、何気なく目線あげると、そこは月が見えた。月は半透明の淡い銀色のひかりをこちらに向かってやわらかく投げかけていた。それは目に冷たいような光だった。池田はまるで雨降りを確認するときのようにそっと手を差し出すと、舞い降りてくる月の光を掌に受けてみた。すると、掌に一瞬微かな温もりが伝わって、でも、それは雪が溶けるようにすぐ消えた。



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                曇り空の向こう 12

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                   日々は駆け足で過ぎて行き、十月も後半に入ると、秋の記しが色んなところで見られるようになっていった。木々の葉は美しい紅に色づき、通りには金木犀の甘酸っぱいような香りが漂うになった。


                   街を照らす日の光はますます透明度を増し、そんな淡い光のなかで、世界は少しずつその色素を失っていくようだった。心なしか、空の色まで、夏の頃に比べると、半透明の淡いブルーに変わった気がした。耳を澄ませば、今どっかりと腰を下ろしている秋の背後に、冬の、微かな足音が聞こえるような気さえした。


                   泉谷太陽から電話があったのは、土曜日の夜だった。電話の内容は、ちょっと話したいことがあるので、もし日曜日暇だったら、一緒にご飯でも食べにいかないかというものだった。池田はどうかにか日曜日は時間を作ることができそうだったので、夕方の六時に難波で待ち合わせをしようと言って、電話を切った。そういえば、中島が今度一緒に食事に行きたいと言っていたし、そのことを伝えるのにも機会だと池田は思った。


                  「池ちゃん、ちょっとやつれたんちゃう?」
                   待ち合わせ場所に現れた泉谷は、池田の顔を見ると、軽く笑って指摘した。
                  「いや、最近ちょっと仕事が忙しくてな、あんま食べてないねん」
                   池田は友人の指摘に、口元で少しぎこちなく笑って誤魔化すように答えた。おそらくやつれてしまったのは、ストレスのせいで食欲がこのところなかったせいだろうと池田は思ったが、しかし、そのことは黙っていることにした。ストレスのせいで食欲がなかったなんて格好が悪くて告げる気にならなかった。


                   池田が、この前の送別会のときに、中島が一度泉谷も交えて食事に行きたいと言っていたことを伝えると、泉谷は意外な展開に戸惑いながらも、基本的に土日であれば問題ないと中島の誘いを承諾してくれた。


                   それから、ふたりは通りをしばらく歩いて、最近できばかりのパブに入った。

                   店に入ると、ふたりはどちらもとりあえずという感じでビールを注文した。

                   程なくして運ばれてきたビールとつまみを口にしながら、池田と泉谷はなんでもないような世間話をした。泉谷の明るい笑い声を聞いていると、池田はこのところふさぎこんでいた心が、少しだけ解きほぐされていくような気がした。

                  「でも、なんか今日、池ちゃん、元気ないよな?」
                   一通り話題が尽きたところで、泉谷が二杯目のビールを口元に運びながら言った。
                  「いや、べつにそんなこともないで」
                   と、池田は泉谷の言葉に、口元で弱く微笑んで否定した。


                  「・・・あれから、彼女とは上手くいってんの?」
                   池田は泉谷の問いに首を振った。優貴とはもう一ヶ月半近く連絡を取っていなかった。最初の頃は優貴のことを思い出すと、辛い気持ちになることもあったが、最近は仕事が忙しいのと、主任のとのことで、優貴のことを思い出すことは少なくなっていた。

                   風呂に入っているときなどにふい思い出して、哀しい気持ちになることがないわけではなかったが、しかし、最近ではすっかり諦めの気持ちに変わっていた。もう、今更彼女の気持ちを繋ぎとめようとか、そういう気力は失われてしまっていた。

                  「実はあれから全然連絡とってないねん」
                   と、池田は苦笑するように笑って少し弱い声で答えた。
                  「そうなんや」
                   と、泉谷は池田の顔をどこか気遣わしげな表情で見ると、どんな表情を浮かべたらいいのかわからないといったように、曖昧な笑みを浮かべた。

                  「もう諦めたんや?」
                  「まあな」
                   と、池田は眼差しを伏せて口元で少し笑った。
                  「いつまでも待っててもしゃあないしな」

                  「・・・そっか。それやったらいいんやけど」
                   泉谷は池田の科白に言い淀むようにそこで一旦言葉を区切ると、少し躊躇ってから、
                  「いや、実はな」
                   と、泉谷は言った。
                  「この前の土曜日、俺、池ちゃんの彼女、見かけてん」

                   池田は、泉谷の言葉に、それまで俯けていた顔をあげて、泉谷の顔を見つめた。泉谷は何度か池田も交えて優貴と出かけたことがあるので優貴の顔は知っている。

                   池田が黙っていると、泉谷は言葉を続けて言った。
                  「この前な、彼女と一緒に買い物にいってんけどな、そのときに、見かけてん。池ちゃんの彼女。遠くから見かけただけやから、もしかしたら見間違いかもしれへんけど、でも、たぶんあれは池ちゃんの彼女やったと思うで。誰か知らん男のひとと一緒に歩いとった」


                  「そうなんや」
                   と、池田は相槌を打った。何をどう言ったらいいのかわからなかった。そんなことじゃないだろうかと覚悟はしていたつもりだったが、泉谷の口から改めてそう聞かされると、池田はやはりショックが大きかった。

                  「このことを言おうかどうか迷ってんけどな」
                   と、池田が言葉を見つけられずにいると、泉谷はいいわけするように付け足して言った。
                  「でも、一応言っておいたほうがいいと思ってな」

                   池田は泉谷の科白に黙って頷いた。

                  「まあ、もしかしたら、俺の見間違いかもしれへんけどな」
                   と、泉谷は励ますように微笑して言った。

                  「いや、でも、たぶん、見間違いじゃないと思うで」
                   と、池田は少し間をあけてから、なんでもないふうを装って言った。池田としては友人に心配されたくなかった。
                  「これで色んなことがはっきりするもんな。突然彼女が別れたいって言い出したのも、連絡がつかへんかったのも」

                   池田は一旦そこで言葉を区切ると、泉谷の顔を見て、
                  「でもまあ、これで良かったんかもな、色々はっきりしたし」
                   池田は力なく笑って言った。泉谷は池田に誘われるようにして口元を曖昧に笑みの形に変えると、少し間をあけてから、
                  「でもまたそのうちいいことであるで」
                   と、慰めてくれた。

                  「そうやな」
                   と、池田は頷いて軽く笑った。それから、池田は心のなからせり上がってくる感情を無理に押さえ込むように、グラスに残っていたビールを一息に飲み干した。
                            

                      21


                   それでも明日はやってくる。たとえどんなに明日という日がやってくることを望んでいなくても。

                   仕事を終えアパートに帰宅し、風呂に入り、ぐったりと疲れきった状態でベッドに入る。ベッドに入って瞼を閉じるときに、池田はふと暗い気持ちになる。もう明日という日なんてやってこなくてもいいかなと。ただこのままずっと静かに眠っていたいと。それでも、当たり前のことではあるが、そんな池田の意志とは無関係に、夜が明ければ、また新しい一日がはじまる。

                   ちょっと大袈裟かもしれないが、自分にとって会社での時間は、水中のなかでずっと息を止めているみたいだ、と、池田は最近感じることがあった。

                   中島の送別会からもう二週間以上が経過したが、一向に主任の池田に対する態度は変わらなかった。面倒な仕事は押しつけられるし、何かミスをすれば、必要以上に嫌味を言われた。池田は一体自分は何のためにこんな毎日を我慢しているのだろうとしばしば思うようになった。

                   決して今の仕事が嫌いなわけではないが、かといって、どうしてもこの仕事を続けてきたいと思っているわけではない。会社のなかに特別親しい人間がいるわけでもない。いっそ今の会社を辞めてしまおうか。池田は何度となくそんな思いに駆られる。

                   でも、と、池田は一方で思う。もし、ここで自分が会社を辞めたりしたら、それこそ主任とって都合の良い結果になるだけなんじゃないのか。池田はたとえどんなことがあっても、主任を喜ばせてやるようなことはしたくなかった。

                   でも、じゃあどうすればいいのだろう。このままずっと主任の嫌がらせを耐え忍んでいくしかないのだろうか。

                   池田は確かな答えを見つけられなかった。見つけられないままに、必要以上に心は落ち込んでいった。

                   そんなふうに気持ちが沈んでしまうのは、この前泉谷から話を聞いたせいもあるのかもしれなかった。街で優貴を見かけたという話。

                   あれから池田は泉谷と別れて自分のアパートに戻ったあと、ケータイのアドレスから優貴の連絡先を削除した。そうすることで、未練の気持ちを断ち切ろうとしたのだが、結果はかえって、惨めな喪失感が深まっただけだった。

                   まだ根っこの部分には優貴に対する想いがどうしようもなく残っていたし、それは池田の心に眠っている様々な暗い思いを呼び寄せて、たださえ疲労している池田の心を余計に暗い場所へと追い詰めていった。


                               22
                   

                   その日、アパートに帰り着いたのは、夜の十一時を過ぎていた。仕事がなかなか片付かなくて帰るのがいつもよりも遅くなってしまったのだ。

                   明日は明日でまた仕事がある。八時には会社に着いていなければならないので、遅くとも朝の六時半には起きなければならない。

                   これから風呂に入って、ご飯を食べて、テレビを見たりしていたら、もうすぐに一時過ぎだ。何も自分のやりたいことをやる時間がない・・・そして、また明日、あの主任の顔を見なければならないのか。

                   そのとき、ふいに、池田の心の中に、自分でも上手く説明のつかない、色んな感情がごちゃまぜになった、激しい苛立ちのようなものがこみ上げてきた。一瞬、色んなことが忌々しくなった。仕事のことも、優貴のことも、将来のことも、生活のことも、なにもかも。

                   もう何もかもが嫌だと、池田は思った。全て投げ出してしまいたい、と、自棄になった。それが大袈裟な感情であることはわかっていたが、しかし、池田はそんな発作にも似た感情をどうすることもできなかった。

                   ソファーに座ってしばらく時間をおくことで、さっきまでの突発的な感情の高まりはいくから収まったものの、池田は何もする気になれなかった。風呂に入るのも、これから食事をするのも、眠るのも、全て億劫に感じた。ただ何もかもが面倒だった。面倒というよりは哀しいのかもしれなかった。自分という存在を消し去ってしまいたいと思った。


                   十五分か、二十分、そうしてソファーでぼんやりと自分の感情の流れに身を任せていたあとで、池田はふと久しぶりにあそこへと行ってみようと思い立った。池田はその場所のことが無性に懐かしくなった。

                   その場所のことを、池田たちは昔から「星見」と呼んで親しんでいた。「星見」というのは、べつに星が綺麗に見える場所のことではない。大阪郊外にある、夜景が見える場所のことだ。

                   その場所は、池田が昔通っていた大学の近くにあって、あまりひとに知られていない。池田が大学のあたりを車で走っているときに偶然見つけて、いつしか池田の友達みんなでときどき通うようになったのだ。

                   何故その場所のことを「星見」と呼ぶようになったのかはわからない。徹夜明けの朝にみんなで車でその場所に出かけて、そこから見える星空が綺麗だったことから、太陽がそう呼んで、いつの間にかそれがみんなに浸透したような気がするが、でも、そんな気がするだけで、実際はそうではないのかもしれない。池田の記憶は曖昧だった。


                   ただ池田のなかでその場所は特別な場所だった。大学生のときも、何か上手くいかないことがあって落ち込んだりすることがあると、池田はひとりでよくその場所に通ったものだった。

                   池田はアパートから外に出ると、駐車場まで歩き、自分の車に乗った。そして池田の今住んでいる場所から片道一時間程かかる「星見」を目指した。「星見」に行って帰ってくると、眠るのは深夜の二時を過ぎてしまうことになるが、そのとき池田はもうどうでもいいような投げやりな気持ちになっていた。

                            23

                   もう夜の十二時を過ぎているということもあって、車道に車の数は少なく、予想していたよりもずっと短い時間で目的の場所に辿り着くことができた。

                   池田は道端の隅に寄せて車を駐車すると、車を降りた。

                  「星見」はちょっとした山のうえにあるので、空気はひんやりとして肌寒い。まるでその場所だけ、一ヶ月ほど早く季節が進んでいるかのようだ。もう少し厚着をしてくればよかったな、と、池田は軽く後悔した。

                   少し歩いて、展望台のうえに上がる。展望台といっても、観光地にあるような立派なものがあるわけではなく、木材で間に合わせで作った、ちょっと大きめのベランダのようなものが備えつけてあるだけだ。

                   池田は展望台に上がると、歩いていって、手すりにもたれかかり、そこから見える大阪の街の光をぼんやりと眺めた。

                   オレンジ色がかった、淡い光が遠くに見える。瞳のなかから池田の心に沈みこんだいくつもの光の欠片は、池田の心を微かに震わせていった。

                   一瞬、池田のなかで何かが大きく膨張して、またもとに戻るような感覚があった。

                   最後にこの場所に来たのはいつのことだろうと池田は思い返した。あれはたぶん、大学を卒業してすぐのことだと池田は思い出した。卒業式の何日か後に大学の親しい友達にみんなで集まって飲んで、それでそのあとにみんなでこの場所に来たのだ。確か。

                   あの頃から比べて、自分は少しでも成長できたのかな、と、池田はふと思った。少しでも前に進むことができただろうか。

                   たぶん、答えはノーだ。あの頃持っていた希望や、可能性を失ってしまったという意味では、むしろ逆に後退してしまったといえるのかもしれない。

                   結構自分なりに努力してきたつもりだったんだけどな、と、池田は心のなかで力なく笑った。でも、それはたぶん、ただのつもりだったのだろう。まだまだ努力が足りなかったのだ。時間だけが・・・そう、時間だけが、ただ流れすぎていってしまったんだな、と、池田は心のなかから何かが零れ落ちていくように思った。


                   池田は何かを閉じ込めるように強く瞼を閉じた。そうして、しばらくあいだそのままでいてから、閉じていた瞼をゆっくりと開いた。

                   それにしても、生きていくということはなんて難しいんだろう、と、池田は今更のように痛感した。自分はべつに有名になりたいわけでも、お金持ちになりたいわけでもない。ただ、ささやかな自分だけの居場所が欲しいだけだ。

                   だけど・・。

                   いや、でも、そんなふうに今の自分の状況を嘆くのはただの甘えかもしれない。世の中には自分なんかよりももっと過酷な状況に置かれているひとたちだっているのだから。なにをこれくらいのことで自分はくよくよしているのだろう。しっかりしろよ、と、池田は心のなかで自分を叱咤した。でも、そうしても、心に上手く力は入らなかった。心はいつの間にか冷えて硬く強張ってしまっていた。


                   池田は改めて遠くに見える街の光を眺めた。じっと見ていると、その美しい光の集まりは懸命に池田に何かを伝えようとしているようにも見えた。でも、池田には光が一体自分に何を語りかけようとしているのか、どれだけ耳を澄ませてみても聞き取ることはできなかった。
                   

                   ただ聞こえるのは、耳元を吹きすぎていく少し冷たい風の音だけだった。

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                  曇り空の向こう 10

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                     それから、主任とは飲み会が終わるまで一言も口を聞かずに終わった。

                     飲み会が終わると、池田は中島と帰る方向が同じだったので、途中まで一緒に帰ることにした。

                     他の社員と別れて、少し歩いたところで、
                    「すみません。わたしのせいであんなことになっちゃって・・・」
                     と、中島は心持顔を俯けて申し訳なさそうな口調で言った。

                    「そんな気にせんでもいいで」
                     と、池田は軽く笑って答えた。
                    「べつに中島さんが悪いわけやないんやし。だいたいあいつには前々からムカツいとってん」
                    「でも、あんなこと言っちゃたら、会社で働き辛くなりませんか?」
                     と、中島は俯けていた顔をあげて池田の顔を見ると、心配そうな声で言った。


                    「大丈夫やって」
                     と、池田は微笑して答えた。
                    「いざとなったら、会社辞めればいいだけの話やし。実際、最近転職しようかなって思っててん」
                    「・・・そうなんですか?」
                     中島はどこか気遣わしげな表情で池田の顔を見た。


                    「それより、中島さんはこのあとどうするか決めてんの?会社辞めてから?」
                     池田は明るい表情を装って、殊更に話題を変えて言った。

                     中島はさっきの主任との件について、まだ何か言い足そうな表情を浮かべていたが、もう一度迷うように池田の顔を一瞥してから、
                    「一応決めてます。東京に行こうかなって」
                     と、口元で弱く微笑んで答えた。
                    「東京に行くんや?」
                     と、池田は少し驚いて言った。


                    「実は最近、彼氏が東京に行くって言い出してて」
                     と、中島は池田のリアクションに曖昧に笑っていいわけするように続けた。
                    「わたしの彼氏、この前も話したと思うけど、もう二十七歳で、だから、もう一度最後に東京で頑張ってみようかなって言い出してて。それでわたしもついていこうかなって」


                    「そうなんや」
                     と、池田は頷いた。
                    「でも、そういうのもいいかもな。大阪よりも東京の方が色々チャンスもありそうやしな」

                    「でも、わたしも彼氏も東京で具体的にどうするかとかまだ何も決めてないんですけどね」
                     と、中島は池田の顔を横目で見ると、自嘲気味に付け足して言った。
                    「結構アバウトやな」
                     と、池田は中島の笑顔につられるようにして少し笑った。


                     少し冷たい風が吹いて、近くの街路樹の葉を揺らした。オレンジ色の、温かみのある街灯の光が、ふたりが歩く通りを静かに照らし出している。そんな静かな、淡い光のなかいると、何故か色んなものが色あせて、物悲しく見えた。


                    「そういえば」
                     と、しばらくの沈黙のあとで、中島が微かに口元を綻ばせて言った。
                     池田が中島の顔に注意を戻すと、
                    「この前、彼氏に池田さんが褒めてった言ったら、彼氏、すごく喜んでましたよ」
                     と、中島は楽しそうな笑顔で言った。
                    「一度、池田さんに会ってみたいって言ってました。池田さんも昔音楽やってたことがあるんだって教えたら、話が合いそうって」
                    「俺の場合はただの趣味やけどな」
                     と、池田は軽く笑って答えた。


                    「そうだ、今度みんなで一緒にご飯食べません?」
                     と、中島は明るい声で勝手に話しを進めて言った。
                    「ほら、この前一緒にライブに来てた、なんでしたっけ?・・・いず、なんとかさん」
                    「もしかして泉谷のこと?」


                    「そうそう、泉谷さん。その泉谷さんとか誘って。わたし、もう会社辞めちゃったし、だから時間なら結構あるし、彼氏もバイトだから、時間合わせられると思うし。それでいつかふたりが都合のいい日にでも」
                    「べつにいいけどな」
                     なんだか妙な展開になってきたなと可笑しくなりながら池田は承諾した。
                    「やった!」
                     と、中島は嬉しそうにはしゃいだ声を出した。


                    「わたし、池田さんの友達と一度話してみたかったんですよね。なんか面白そうなひとだったし。あのひと、名前忘れちゃったけど、お笑い芸人の誰かに似てますよね?」
                     池田がそのお笑い芸人の名前を告げると、中島はそのひとそのひとと言って、可笑しそうに笑った。
                    「でも、あいつは顔が似てるだけで、あんま面白くないで」
                     と、池田は中島に一応忠告しておいた。


                    「今日は月がきれいですね」
                     と、中島は唐突に歩みを止めると、夜空を見上げて言った。池田が中島につられるようにして夜空を見上げてみると、そこには、月が、冷たく澄んだ光をそっと放っていた。


                                 
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                     予想していたことではあったが、主任の池田に対する風当たりは強くなっていった。以前からそういう傾向はあったのだが、この前の飲み会の席での一件以来、その傾向はますます顕著になっていった。ときには嫌がらせ以外の何物でもないと思えるようなことまでされるようになった。


                     池田が自分のデスクで仕事をしていると、主任の机の前まで呼び出されて、どうでもいいようなことで大声罵らせた。適正がないからやめろ、と、まで言われた。また面倒な仕事は全部池田に押し付けられたし、何かミスがあると池田のせいにされた。

                     池田の会社は一応週休二日制になっているのだが、休日は決まって主任に何か仕事を頼まれて休日出勤しなければならなかった。


                     何人かの同僚は池田に同情してくれたし、慰めの言葉もかけてくれたが、しかし、だからといって、池田の弁護までしてくれるわけではなかった。もし、主任に逆らえば、今度は自分が標的にされることがわかりきっているからだ。

                     主任のせいで池田はストレスがたまり、ときには気分が悪くなって、胃液を吐くことがあるくらいだったが、しかし、ここで辞表を出したりしたら、それこそ主任の思うツボだと思って、どうにか我慢した。主任の嫌がらせなんかに負けてたまるか、と、池田は意地になっていた。

                          
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                    曇り空の向こう 

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                       九月も半ばを過ぎた頃から秋はその存在を急速に際立たせていき、まだ微かに残っていた夏の余韻のようなものを遠くへ押しやっていった。気のせいか色んなものの色素が薄れていくような気がした。町を照らす日の光。空の色。木々の葉の色。空き地に茂る草の色。


                       結局いつまで経っても優貴からの連絡はないままだったが、しかし、次第に池田のほうでも優貴のことを思い出すことは少なくなっていった。池田が優貴に連絡を取ることを試みたのは、二週間前の土曜日が最後だった。それからは一度も電話もメールもしていなかった。

                       二度も連絡を取ることを試みて、それで駄目だったのだから、結局のところ、もうどうしようもないのだろうと池田は判断した。優貴を失ってしまうのは哀しかったが、しかし、池田にもプライドがあった。無理をして、ストーカーと勘違いされるようなことまではしたくなかった。

                       中島はこの前エレベーターのなかでも告げたように、会社に辞表を出したようだった。退社までには手続きなどがあってもう少し時間がかかるようだったが、それでも十月のはじめ頃までには退社してしまうという話だった。


                       主任のこともあるので、中島が会社を辞めてしまうのは仕方のないことだったが、しかし、池田は中島がもうすぐ会社からいなくなってしまうのだと思うと、寂しい気持ちになった。考えてみれば、会社のなかで、音楽のことや、趣味のことについて話がきるのは彼女くらいのものだったのだ。他の人間とはそれほど話がかみ合わなかった。


                       池田はふと会社のなかから自分の居場所がどんどん失われていってしまうような、疎外感の混じった、孤独感を覚えた。そんなふうに感じてしまうのは、この前の武田の話のせいもあるのかもしれなかった。


                       池田はときどき、いま自分がどこに居て、どこに向かって進もうとしているのか、上手把握できなくなってしまうことがあった。一体何が楽しくて、何のために生きているのか。ただ生活するために働く、淡々とした毎日だけがあるような気がした。そう考えると、池田の気持ちはひどくふさぎこむことになった。まるで出口ない、細長い廊下に迷いこんでしまったみたいに。



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                       十月に入ると、何日が続けて激しい雨が降った。その雨が上がってしまうと、世界はいよいよ秋めいていった。大地を照らす日の光は透明度を増し、空気は澄んで、肌寒く感じられるようになっていった。木々の葉も少しずつ色づきはじめ、道端にはところどころで木々の枯れ葉が目つくようになった。


                       中島の送別会が催されたのは、中島が会社で働く最終日だった。予定があって出席できない人間も何人かいたが、池田の働く部署のほとんど全てのひとが参加することになった。

                       仕事が終わったあと、近くの居酒屋に移動して、中島が去ってしまうことをみんなで惜しんだ。

                       そのとき池田はたまたま中島の近くの席になって、彼女と楽しく話しをしていたのだが、しばらくすると、酒を飲んで顔が赤くなった主任がふらふらと池田と中島が話している席に割り込んできた。

                      「中島ちゃん、どうして辞めちゃうんだよ」
                       と、主任は中島のグラスに無理にビールを注ぎながら妙におどけた口調で言った。

                       中島が主任の言葉に困って曖昧に微笑んでいると、主任は池田の顔に視線を向けて、
                      「中島ちゃんが辞めるくらいなら、こいつが辞めりゃあいいんだよ」
                       と、主任は笑って言った。

                       池田は主任の科白に多少腹が立ちもしたが、酔っているし、きっと冗談で言っているのだろうと思って、そうですね、と、曖昧に笑って話を合わせておいた。

                      「こいつなんて全然仕事できねぇし、中島ちゃんの方が会社に居てくれた方が会社のためになるんだよ。な、中島ちゃんもそう思うだろ?」
                      「そんなことないですよ」
                       と、中島は主任の言葉にぎこちなく笑って答えた。
                      「池田さん仕事頑張ってるし、後輩の面倒見とかもいいし」


                      「そんなことねぇて」
                       と、主任は笑って中島の科白を否定した。
                      「こいつが優しいのは、エロイこと考えてるからなんだって。そうだろ?池田?」
                       池田がどうリアクションしたらいいのかわからずにいると、
                      「な、こいつ否定しねぇだろ?」
                       と、主任は笑って勝ち誇ったように言った。


                      「だいたいこいつの目からしていやらしいんだよ」
                       と、主任は微笑して続けた。それから、主任は中島の方に向き直ると、
                      「それにしても中島ちゃんって胸デカイよね?」
                       と、主任は中島の胸のあたりをまじまじと見つめて言った。
                      「ちょっと一回でいいからさわらしてよ」
                       中島が困惑していると、主任は構わずに中島の胸に手を伸ばした。


                      「ちょっとやめてください」
                       中島は小さな声で抗議したが、主任は笑って「最後にもう一回だけ」と言って、また手を伸ばして中島の胸に触れようとした。


                      「主任、それセクハラですよ」
                       と、池田はもう一度主任が中島の胸に触れようとしたところで声をあげた。しかし、主任は池田の声が聞こえなかったのか、そのまま手を伸ばそうとする。


                      「ちょっと主任」
                       と、池田は今度は少し大きな声で注意した。それから、中島の胸に手を伸ばしかけた主任の手を軽く叩く。


                       主任はまさか池田に手を叩かれるとは思っていなかったらしく、それまで浮かべていた笑みを消して、池田の顔をじっと見た。

                      「なんだよ、池田」
                       と、主任は池田の顔を見つめまま、脅すような口調で言った。主任は池田に注意されたことが気に食わなかったようだった。

                      「なにがセクハラだよ。お前、中島の彼氏じゃねぇだろ?」

                      「そういう問題じゃないでしょう」
                       と、池田は答えた。
                      「中島さんが嫌がってるのがわからないんですか?」

                      「そんなかっこつけんなって」
                       と、主任はバカにしたように小さく笑って言った。
                      「中島さんの前でいいところ見せようたって無駄だって。中島さんはお前のことなんて絶対好きならねぇし。誰かお前みたいなやつ」


                       池田は主任の言い草に腹が立った。我慢しようと思ったのだのだが、今回はできそうになかった。気がつくと、言い返してしまっている自分がいた。
                      「誰もそんなこと言ってないでしょう。だいたい誰のせいで中島さんが会社辞めると思ってんですか?あんたのセクハラのせいですよ」


                       ちょっと池田さん、と、中島が小さな声で注意する声が聞こえたが、そのときは池田も頭に血が上っていて、自分の感情が抑えられなくなっていた。

                      「お前、誰に向かって口きいてんだよ」
                       と、主任も池田の言葉に声をあらげた。
                      「あんたって、あんたですよ。他に誰がいるんですか?」


                       本格的に雰囲気が緊迫しだしたところで、
                      「主任!ちょっとこっちに来てくださいよ」
                       と、よく事情を知らない男の社員が主任に声をかけてきた。

                       主任は一度その社員の方を振り向くと、それからまた池田の方に向き直って、池田の顔を睨みつけた。そして立ち上がると、何も言わずに、主任は声をかけてきた男の社員のもとへと歩いていった。

                       池田は去っていく主任の後ろ姿を無言で見送った。



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